人生の法則(2)~因果法則と輪廻転生
輪廻転生的思考
「この因果法則の存在そのものを悟った人は、自分がいま遭遇している運命的結果である環境状祝は、何時その原因を創ったかを思い出せるほど間近なものではないという非常に大切なことにすぐに気がつく。ここで一歩進めて深く考えると、今、自分が生きているこの人生のほかに“前世"ともいうべきものがあったのではないかと推理しはじめ、魂 (エゴ)とか人格性とか言うべきもののみが知っている別の人生が何処かにあったに違いなく、そこで今の自分の運命の原因を創りあげたのであろうとの考えに至る。この様に深く推察すると、自分という存在は、前世にも肉体をもって生きていたに違いなく、その時の"生き方"によって創成された原因が今の自分の肉体におこっているのだとの思考的結論に達するのである。この様に推理することによって、人類は輪廻転生という考えに到達したのであり、輪廻転生的思考を取り入れてはじめて、人生の時間空間的領域が縦、横に拡大するのである」
生きていると「どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか!?・・」「何で自分だけがこうなるのか!?」といったネガティブことが身の上に生じることがある。
いくら考えても、今の自分には身に覚えがないのなら、それは、ゼロン大師の言葉にある通り「自分がいま遭遇している運命的結果である環境状祝は、何時その原因を創ったかを思い出せるほど間近なものではない・・」ということになる。
それは神の罰でも、たまたまでも、偶然でもなく、前世の自分の生き方が今生にもたらしたものということだ。
今の自分は前世の自分を覚えていないし、思い出すことはできない。
だが、自分の魂は過去世の自分、その生まれ変わりのすべてを知っているのだ。
因果法則の理解~自分自身に責任があるの意味
「この様になれば、もはや人間は、“神は不公平"だと思わなくなる。自分自身の行動に対する責任は自分自身の双肩にかかっているからである。何時かの過去に、自分が未来に健康や病気となる因を創ったのであり、いつかの過去世で、自分が未来に貧乏や金持ちになる因を創ったのである。この因果則は、人間を人生に対して弱くするものではなく、反対に強くするものなのである。我々人間は、杖を捨てれば自分自身の力で歩かなければならないのである。勿論、それには努力もしなければならない。努力して一人立ちするということが、強くなるということの意味なのである」
この世には、人を苦しめることを平気でしているのに法律で裁かれもせず、手に入れた権力や財力を使いのうのうと生きている人間がいる。
こうした人間は、あたかも因果法則から特別に逃れていきているかのように見えるかもしれない。
だが、誰も自分自身の行為の結果から逃げることはできない。
この世を生きているすべての人間は、因果法則に支配されているからだ。
この因果法則から逃れられる人間はおらず、誰もが自分の行為の結果をいつか必ず受けるのである。
それがいつかは神のみぞ知るであるが、自分が蒔いた種は自分が刈り取ることになるのである。
まだ幼いのに、特異な才能を発揮する子供がいる。
こうした子供は天才とか神童と呼ばれたりするが、その才能は神がその子を選んで特別に与えたものではない。
本人が前世やそれ以前の過去世において、相当の努力をしてきた結果なのである。
ゼロン大師は「この因果則は、人間を人生に対して弱くするものではなく、反対に強くするものなのである」と言われている。
自分の身の上にいつ災難が襲っているくのかを心配して、戦々恐々と生きていては人生に対して弱気になるばかりである。
確かに、辛く苦しい思いをするのはできるなら避けたい。
だが、戦々恐々としていても仕方がないし、受けるものは受けると覚悟することだ。
なぜなら、それはいつかの過去の自分がつくった原因の結果だからだ。
大事なのは、因果法則をよく理解して自分に活用していくことであり、これをやっていくことがゼロン大師の「・・反対に強くするものなのである」の意であると理解する。
ゼロン大師は最後に「努力して一人立ちするということが、強くなるということの意味なのである」と言われているが、一人立ちというのは、前回の引用にある「自分の運命の支配者、自己の魂の主人公になる」という意であると理解する。
なぜなら、人間は「おのが意志に反して弄ばれる運命の玩具ではない」からである。(『解脱の真理』著者はじがきより引用)

★引用書籍
『秘教真義』第1部 聖者の教え:九「人生の法則」より