感情(2)~自己感情の克服・支配
自分が感情を支配し使うということ
「感情を支配するために、それを鎮圧したり粉砕したりする必要はない。偉大なる聖者大師達はまた、最も大なる情緒的心情の持主であるが、いつも自己の感情を自由自在に制御しておられるのである。修業を積んで聖者大先達 (アデプト) とあがめられる人達も情緒的感情を超越しているのではない。その人達はむしろ、感情そのものの中に入ってゆき、自分の意志で自由自在に感情のしがらみから脱出されるのである。この様にアデプトと呼ばれる聖者達は、その人が感情が意志や知性を支配利用する代りに、自分の知性と意志とでもって自己の感情を支配し、使役するのである」
聖者だからやれるのだ・・では、やる前から失敗していることになる。
自分も訓練していくのである。
感情に支配され使われる自分ではなく、感情を支配し善く使える自分を訓練を通してつくっていくのである。
自己感情の克服を図る
「感情は理性の力を失わせるものだから、神と人との間を遮閉する大きな障害となるのである。感情情緒の支配克服によってのみ、人は神の子としての自分の正しい地位を確保できるのである。感情は単に感情にすぎず、感情以外の何ものでもないことを認め、それを意志でもって善導することによって自己の感情の克服を図らなければならない。感情に使われ、ふり回されるのではなく、感情を善用しなければならない。そのためには正義が一つの方針となる。感情的にどうあろうと正しきを行なわなければならない。そうすれば、望ましい結果を将来にもたらす善因を積んだことになるのである」
人間は感情の動物であると言われているほど、人間は感情のとりこになっている。
何かを判断するにも、その良し悪しを自分の感情で決めていることが多い。
感情は自分にとって説得力があるため、「自分はこう感じた、だから正しい」と信じて疑うことをほとんどしない。
だが、これを聖者の教え(真理)の学びにおいてやっていたら、教えの本質を理解することは難しくなる。
聖者の教えが難しく感じてイライラしてくると、理解できない自分の未熟さを受け入れて認めるのではなく、分かりやすく説かない聖者が悪いと聖者のせいにしたり、逆に、直ぐに簡単に分かるとその気になり、その内容こそ本物だと感じて受け入れてしまったり・・こうやって自分の感情で判断している限り、本質の理解からは遠のいてしまうばかりである。
なぜなら、自分の感情など当てにならないからである。
それよりも、自分の感情で判断している危険性、曖昧さに気づくべきである。
自分が真剣に神に向かって自己意識を高めていきたいのならば、である。
ゼロン大師は、感情を善用するためには「正義が一つの方針となる」と言われている。
善用というのは、因果法則に沿った行為をするという意であり、正義とは「神の法則、聖者の教え(真理)」であると理解する。
さらにゼロン大師は、「感情的にどうあろうと正しきを行なわなければならない。そうすれば、望ましい結果を将来にもたらす善因を積んだことになるのである」と言われている。
ムカついたから相手を殴った、嫌いだから軽く厚かった、妬ましいから意地悪をした、負けたくないから邪魔をした、憎たらしいから復讐した・・自分が相手にしたことは、自分自分にしたことになる。
つまり、これが因果法則であり、自分の蒔いた種を刈り取るのは自分自身なのである。
感情は単に感情に過ぎず、感情意外の何ものでもないことを認めることができないのは、感情=自分になっているからであり、また、因果法則の理解がないからだと言える。
ゼロン大師は、「感情を意志でもって善導することによって自己の感情の克服を図らなければならない」と言われている。
感情に自分を入れないことである。
もしくは、感情から直ちに自分を抜くことである。
自分の感情に連れていかれるのを阻止するのである。
自分の意志でそれをやるのである。
それが「善導すること」の意であると理解する。

★引用書籍
『秘教真義』第1部 聖者の教え:十「感情」より